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Re: 聖書報告:ヨハネの黙示録19章11節~21節『白馬の騎手』 報告者 檜垣徹

 投稿者:Honest  投稿日:2014年 7月28日(月)10時26分9秒 121-80-240-4f1.hyg1.eonet.ne.jp
返信・引用
  > No.270[元記事へ]

日々の労働さんへのお返事です。

> ヨハネの黙示録では、神に逆らう者への裁き、神に従う者への報いと彼らの神に対する感謝、賛美の情景が繰り返し描かれる。それらの情景については、文字通り解釈していいのか、象徴として見ればいいのか、その両方の意味が含まれるのか、様々に考えさせられる。
>
> 19章11節でヨハネは「天が開かれているのを見た。」
>
> ヨハネは黙示録の中で「天」を幾つかの異なった意味で用いているが、ここでは神の住まいという意味である。そこに白い馬が現れるが、その乗り手はキリストである。キリストについて様々な呼び名が記される。これらは、キリストがどういう方であるかを端的に示している。
>
> キリストは、「『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。」(黙19:11)
>
> 世において不当で不公平な仕打ちを受けるのは、多くの場合、弱い人、貧しい人である。それらの人々のために正当な裁きと公平な弁護が行われる(○参イザ11:4)。
>
> キリストは、「神の言葉」(黙19:13)と呼ばれる。
>
> キリストは、「その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。」(イザ11:4)
>
> 「主イエスは彼(不法の者)を御自分の口から吐く息で殺」す(Ⅱテサ2:8)。
>
> キリストの「口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。」(黙19:15)即ち、「神の言葉」には絶大な力があって、完全な正義を行う。
>
> キリストは「王の王、主の主」(黙19:16)であり、完全な勝利を収める。誰も太刀打ちできない。
>
> キリストにはまた、「自分のほかには、だれも知らない名が記されていた。」(黙19:12)神との特別な関係を持った特別な人格―他の者にはその名を知らせる必要がない―を意味している。
>
> 不正を行う者がどれだけ集まろうとどんな戦いを仕掛けようと「神の言葉」の前には全く無力である。彼らは抵抗もできない。神の大宴会で、自分達のために用意された場所へと向かうのみである。
>
> これらの情景の基にあるのは、神による正義の裁きである。不正を行う者はことごとく裁かれ、反対に,神に従う者は、どんなに小さく弱く貧しい者であっても全ての者が神の目から外れることなく報いを受ける。
>

素晴らしい。お褒めのお言葉ありがとうございます。
 
 

Re: 聖書報告 -「フィリピの信徒への手紙」はどんな原理で記されているのか- 田中晶善

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年12月28日(土)22時54分40秒 180-198-200-17.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  > No.400[元記事へ]

田中晶善さんへのお返事です。

クリスマス特別集会での田中晶善さんの聖書報告は今回で4回目となるかと思います。
毎年新鮮で、新しい視点での聖書の読み方を教えていただき大変有難く思っています。
来年早々、手術をされるとの事ですが、どうか神様の御守りがありますように一同お祈りしています。
主にある平安を祈ります。

 

聖書報告 -「フィリピの信徒への手紙」はどんな原理で記されているのか- 田中晶善

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年12月28日(土)22時50分2秒 180-198-200-17.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
   「フィリピの信徒への手紙」は、パウロを支援しているフィリピ教会に向けてパウロが獄中から出した、いわば「礼状」である。その背後には、獄中のパウロに対するフィリピの人たちの心配があった。
 1章3節は、「(私は)感謝する」と書き始められている。ギリシャ語の通例として動詞の主語は省かれるが、この部分に敢えて「私は」(εγω)が記されている写本があり、神学者カール・バルトは、それが本文として相応しいという。
 伝統的に考えられてきたように、この手紙がローマで書かれたのであるとすれば、この後、パウロは解放されずに殉教することになるのであるから、フィリピの人々の心配は自然なことである。しかしパウロは、フィリピの人々の憂慮に対して、一呼吸置くようにして、フィリピ教会での様子を念頭に、「私としては」「感謝している」、という。フィリピの人々は虚を突かれる思いだったかも知れない。しかしこの言葉に、この手紙を貫く「原理」が鮮やかに示されているように思われる。敢えて敷衍すれば、「キリストの僕(しもべ=奴隷」(1章1節)である私、獄というより福音にとらわれている私としては、失意に落ち込んだりしているのではなく、あなたたちの様子を知って、感謝しているのだ」と。
 キリストの僕としてパウロはむしろ自己から解放され、天と地にまたがる視点を得ている。この書簡中の一見雑多な事柄が、その視点から一貫して語られていると思われる。
 例えば ―― フィリピ教会からの贈り物に対して、パウロは単に欠乏(“借金”)の補填として“全額受領”と謝意を述べるだけでなく、その贈り物は、実は神への捧げ物であり、神が“利子”をフィリピ教会へ払ってくださる、と、視点を天にまで広げて喜びを語る。(4章15~19節)
 そもそも入獄問題自体についても、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益」(1章21節)である、と言う。
 出自や学歴について(3章7~8節)も、世を渡る術(すべ)について(4章12節)も同様であり、パウロの視点は天と地を視野に入れている。
 その根拠は「主」なるキリストである。キリストは、神でありながら人間となられた(2章6~7節)、と。すなわち、クリスマスを記念することの原点である。
 天と地をつなぐただ一つの点であるイエス・キリスト。
 その僕(しもべ)として、パウロは獄にとらわれの身でありながら、その精神は生死にかかわる問題からさえも解放されていた。
 パウロの構想は明らかと思われる。その明らかな構想を、読者である我々が、主体の問題としてどう受け止め、どう生きるか、ということが次の課題である。
                            2013.12.22 田中晶善
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №225

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年12月28日(土)22時46分48秒 180-198-200-17.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年12月22日 午前10時から 出席者:8名
聖書集会 10:10~12:00 クリスマス特別集会
     司会:檜垣徹
    讃美歌:109番
   聖書朗読:ヨハネの手紙一第2章28節~第3章3節
     祈祷:檜垣徹
   聖書輪読:哀歌第5章1~22節

   聖書報告: 田中晶善 フィリピの信徒への手紙第1章3~6節
        「天と地と」―パウロの自由―

  感話・感想
    讃美歌:115番
     祈祷:田中晶善
昼食


次回の予定
 2014年1月12日 午前10時から
*聖書集会
     司会:下澤悦夫
     報告:依田欣哉  ルカによる福音書第21章7節から
*昼食
*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
    求安録 「上の部 脱罪術 その四」(P87下段)から


            **************


□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)下澤悦夫(℡052-913-1441)
       田中直子(℡0567-94-3222)檜垣  徹(℡0584-64-4784)
 

Re: 聖書報告 創世記第1章3~5節 檜垣徹

 投稿者:依田欣哉  投稿日:2013年12月28日(土)22時37分5秒 180-198-200-17.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  > No.397[元記事へ]

檜垣徹さんへのお返事です。

とても素晴らしい報告だと思います。(依田)
 

聖書報告 創世記第1章3~5節 檜垣徹

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年12月28日(土)22時35分40秒 180-198-200-17.nagoya1.commufa.jp
返信・引用 編集済
   「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創1:3)神の言われたこの言葉は、私達が言葉について思い描くものを遙かに越えた大きな概念で、何も存在しない所に思い通りのものを存在させる神の力である。神は、私達が存在するこの世界・宇宙とは全く異なった次元・物質・物理法則などから成る世界、私達の限られた経験・知識・思考形態では全く想像することもできない世界をも、自由に創造することができた筈だ。いや、私達が知らないだけで、知りようがないだけで、実際そういう世界は今どこかに存在しているかも知れない。物理学の世界ではそのような説を唱える人がいる。そして私達が認識し存在している一つの世界は確かにここにある。

 そしてこの世界において、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:3~5)言によって成った人間を言の内にある光(命)が照らしている。人間は創造の初めから光と密接に関係している。その人間が暗闇となり、光を理解しないようになるとは。

 神は意味あるものとして夜(闇)をも創造された。秩序正しく昼と交互に訪れる夜を、昼とは明確に区別し適切に用いるならば、夜も人間にとって益となるだろう。聖書辞典の説明によると夜は、神の啓示に接する時であり(創28:11~、32:28~、ルカ2:8~「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう』と言われた。」王上3:5)、人に真剣な自己反省を迫り(詩16:7「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、私の心を夜ごと諭してくださいます。」)、神のまことと加護の偉大さを賛美する時であり(詩92:2,使16:25「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」、そしてイエスも夜を徹して祈られた(ルカ6:12「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」)

 しかし夜はその特質から、罪を犯しまた隠すのに都合のよいものでもある。人間の心はしばしば罪へと向かい、その時に夜の特質を利用するのである。― 夜と同じように用いられる言葉に闇や暗黒があるが、これらは聖書ではほとんど悪い意味でしか用いられていないようだ。― 光と密接に関わっていた人間はやがて罪の世界へと落ちて行き、自分自身が暗闇となってしまい、「光は暗闇のなかで輝いている」のに「光を理解しなかった」のである。

 それでは光とは何だろう。感覚器官が物理的に受ける光からイメージできる様々なものが聖書の中で光と呼ばれている。「(主が)万民のために整えてくださった救い」(ルカ2:31)であり、「命」(ヨハ1:4)であり、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟」(Ⅱコリ4:6)らせるものであり、「光は快く、太陽を見るのは楽しい」(コヘ11:7)と感じじさせるものである。また、「神は光であり、神には闇が全くない。」(Ⅰヨハ1:5)そして信徒に対しては、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」と言われている。

 「命の泉はあなた(神)にあり、あなた(神)の光に、わたしたちは光を見る。」(詩36:10)しかしそこには近寄り難い。神はその「近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方」(Ⅰテモ6:16)。しかし、苦難を経て新しいエルサレムに入る神の僕たちはそこで「神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。」(黙22:3~4)そして、「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」(黙21:23)
 今は闇の時代である。しかし信徒に対しては、「夜は更け、日は近づいた。だから闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(ロマ13:12)と勧められる。そして、「しかし、兄弟たち、あなた方は暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。」(Ⅰテサ5:4~5)と言われる。「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでい」ようと、「あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザ60:2)からである。
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №224

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年12月28日(土)22時31分53秒 180-198-200-17.nagoya1.commufa.jp
返信・引用 編集済
  前回の報告
2013年12月8日 午前10時から  出席者:6名
聖書集会 10:10~12:00
     司会:依田欣哉
    讃美歌:103番
   聖書朗読:創世記第50章15~21節
     祈祷:依田欣哉
   聖書輪読:哀歌第4章1~22節

   聖書報告:檜垣徹 創世記第1章3~5節

        感話・感想

    讃美歌:284番
     祈祷:檜垣徹

昼食

内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
    求安録 「上の部 脱罪術 その一~その三」(P80下段~87上段)


次回の予定
2013年12月22日 午前10時から
*聖書集会
  司会:檜垣徹
  報告:田中晶善 フィリピの信徒への手紙第1章3~6節
         「天と地と」―パウロの自由―
*昼食   


        ******************

□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)下澤悦夫(℡052-913-1441)
       田中直子(℡0567-94-3222)檜垣  徹(℡0584-64-4784)
 

聖書報告 すべてを神の栄光のために(コリント前書10.23-11.1)

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年12月 8日(日)19時43分10秒 180-198-200-17.nagoya1.commufa.jp
返信・引用 編集済
  「偶像に供えられた肉を食べることが許されるか」との問題についてコリント教会から質問があった。この質問に対するパウロの回答(8.1-11.1)の最終結論が今回の箇所である。
「偶像への礼拝に対する警告」(10.1-22)の箇所では「偶像礼拝を避けなさい」と述べて偶像礼拝への厳しい態度を信徒に要求する。ところが「偶像に供えられた肉」(8.1-13)の箇所では「知識」を持つ人に対しより自由な態度を許容している。
私が思うに、前者は聖霊を害することになる場合であり、後者は聖霊を害しない場合であるからである。そこに両者の主張の違いが現れている(10.20-21参照)。そして両者の主張を綜合するパウロの主張が「すべて神の栄光を現すためにしなさい」(10.31)ということなのである。

世俗社会では偶像への供え物が流通し取引されている。世俗社会での生活、市場での商品売買などの経済取引、あるいは世俗社会における饗応接待その他の交際については、世俗社会の法則に従って行動して差し支えない。グノーシス主義者と同じような「知識」に従って行動し生きることが許されている。これは世俗社会において偶像への供え物に対する対応の一般原則(通則)である(10.25-27)。

しかるに、誰かが意図して特別に「これは偶像に供えられた肉です。」と言うときには(10.28)、それを食べてはならない。つまり偶像に供えられた物であることが取り立てて議論の対象になるときには、「偶像礼拝をしてはならない」という戒めの記憶が喚起されるからである。

また、偶像に供えられた物を食べることが、他人を躓かせるおそれがあるからである。このようなときには、偶像に供えられた物を食べることを拒絶しなければならない。その他人の良心のために自分の自由を行使しないことが信徒の愛の務めである。このときには一般原則(通則)ではなく特別原則(特則)が適用されるのである (10.28-30)。
要するに、すべてを神の栄光のためにすべきである。私たちは、食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても「すべて神の栄光を現すために」しなければならないのである(10.31)。

そして、パウロは「神の栄光のため」に生きる生き方についての解き明かしをする(10.32-11.1)。キリストによって自由を与えられたキリスト信徒は、その自由を、自分の利益のために行使するのではなく、他の人の救いのために、他の人の益になるように行使しなければならない。それがキリストに倣うことなのである。パウロはキリストに倣う者となった。同じように、コリントの信徒はパウロに倣う者となるように。パウロがキリストに倣う者であるように、キリストに倣う者になるように。そのようにパウロは勧めるのである。
                            (2013/11/24名古屋聖書集会・聖書報告)下澤悦夫
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №223

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年12月 8日(日)19時39分20秒 180-198-200-17.nagoya1.commufa.jp
返信・引用 編集済
  前回の報告
2013年11月24日 午前10時から 出席者:7人

聖書集会 10:10~12:00
     司会:田中直子
    讃美歌:214番
   聖書朗読:詩編第104編1~35節
     祈祷:田中直子
   聖書輪読:哀歌第3章1~66節

   聖書報告:下澤悦夫 コリントの信徒への手紙Ⅰ第10章23節~第11章1節
        「すべてを神の栄光のために」
        感話・感想

ギデオン報告と証:仙敷公司
   讃美歌:495番
    祈祷:下澤悦夫
昼食

エクレシア研究会  13:00~14:30
     報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論Ⅵ」


次回の予定
 2013年12月8日 午前10時から
聖書集会
        司会:依田欣哉
   報告:檜垣徹 創世記第1章3~5節
昼食

内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
    求安録 「上の部 脱罪術 その一 リバイバル」(P80下段より)


           ********************

□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)下澤悦夫(℡052-913-1441)
       田中直子(℡0567-94-3222)檜垣  徹(℡0584-64-4784)

 

日露戦争開始前夜に於ける内村鑑三の預言的言辞:「近事雑感」内村鑑三1903年9月万朝報

 投稿者:依田欣哉  投稿日:2013年11月24日(日)19時26分28秒 softbank220000198065.bbtec.net
返信・引用
  「殺す者は殺される」
軍人を刺激して外敵を打たしむる者は、ついにみずからその軍人の打つところとなる。軍人をしてシナを打たしめし日本人は、過去十年間、軍人の苦しめるところとなり、その富のほとんど全部をささげて軍人保育の料に奉った。今もし同じ軍人をしてロシア人を打たしめたならば、彼らがさらにわれらより要求するところはドレだけであろうぞ。その時こそ、今なおわれらの中に残るところの僅少の自由も憲法も煙となって消えてしまい、日本国はさながら一大兵営と化し、国民は米の代わりに煙硝を食い、麦の代わりにサーベルを刈るに至るであろう。

1894.8月 日清戦争、1895.4月 下関条約、独仏露三国干渉。
1904.2月 日露戦争、1905.9月 ポーツマス条約、1910.8 日韓併合
1914.8月 第一次世界大戦参戦(ドイツに宣戦布告)。1925.3月治安維持法
1928.6月 満州事変(張作霖爆死)、31.柳条橋事件(満鉄線路爆破)、36.2月2.26事件
1937.7月 盧溝橋事件(日中戦争開始)、
1941.12月 真珠湾攻撃(内村『殺す者は殺される』から約40年*)
1945.8月 ポツダム宣言受諾(無条件降伏)

*この時間的な関係はイエス様が弟子たちに神殿崩壊の預言をし、実際に70年にエルサレム神殿が崩壊した事と酷似している。日本は日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ち、国民は多いに盛り上がっていた。特に日露戦争に関しては、日本が旧大国ロシアに勝利したということで、欧米のみならずアジア各国の注目を集め、アジアでは一時自主独立の盟主としての期待を日本にかけていた。日本国民の大多数は、日露戦争の勝利を日本の栄光として捉えた。その風潮は現在でも続いている様だ。
対露開戦論に湧いていた時に「軍人の力を借りれば、それに倍した返済を要求される」「今なおわれらの中に残るところの僅少の自由も憲法も煙となって消えてしまい、日本国はさながら一大兵営と化し、国民は米の代わりに煙硝を食い、麦の代わりにサーベルを刈るに至るであろう」とは正に預言的な言辞であった。日本の軍国主義時代の到来を確実に預言していたと言えるだろう。私達は、学ばなければならない。

「日露戦争より余が受けし利益」1905年11月『新希望』
日露戦争は、わが国民の中に残留せしわずかばかりの誠実の念を根こそぎ取りさらいました。すでに非常に不真面目なりし民は、さらに一層不真面目になりました。その新聞紙のごときは、一つとして真真実を伝えるものなく、味方の非事といえばことごとくこれをおおい、敵国の非事といえば針小を棒大にしても語るを喜び、真理そのものを尊ぶの念は全く失せて、虚をもってするも実をもってするも、ただひとえに同胞の敵愾心を盛んにして、戦場に於いておいて敵に勝たしめんとのみ努めました。、、、、しかしながら戦争は実際戦争を止めません。否、戦争は戦争をつくります。日清戦争は日露戦争を生みました。日露戦争はまたどんな戦争を生むかわかりません。
 

イエス様の『神殿崩壊の預言』への補足

 投稿者:依田欣哉  投稿日:2013年11月24日(日)19時15分44秒 softbank220000198065.bbtec.net
返信・引用
  参考資料として以下の引用文献を紹介しておきたい。

イエスの実像 著者名不詳 http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/076.htm
76. マルコ・神殿におけるイエスの教えと論争 神殿崩壊預言
* エルサレム神殿を立ち去る前に、ヘロデ大王が建てた壮大な神殿を見て、弟子がイエスの本意を全く理解しないで、ただただ壮麗さに感嘆する言葉を吐きます。イエスは富と権威の象徴である神殿などは、そのうち崩壊してしまうと預言します。エレミヤ、ミカの同様の預言をしていますが、神殿腐敗を審く預言の一形態と考えられます。この箇所を指してマルコ福音書がユダヤ戦争後(70年代)に書かれたという学者もいますが、これだけではユダヤ戦争の事後預言とは到底言えないでしょう。ガリラヤの民間伝承が残っている時代にマルコが福音書の資料として集めたのは、政情不安になる前の50年代と考えるのが妥当でしょう。

予言者としてのイエス(市川喜一著作集より)
その最後の活動を終えて神殿から出て行かれる時、弟子たちに神殿の徹底的な崩壊の予言を語られる。この予言はごく短い言葉であるが、イエスの死に結びつく重要な予言行為である。
 弟子たちは、「なんという見事な石、なんという立派な建物でしょうか」と言って、神殿の壮麗さに改めて驚嘆している。この時の神殿は、捕囚後再建された第二神殿をヘロデ大王が修築したもので、大理石に輝く華麗な神殿は、当時のヘレニズム世界の「七つの驚異」の一つとされていた。ヘロデ大王による修築工事は紀元前一九年に始められ、紀元前九年には一応献堂されたが、さらに工事は継続されて完成したのは紀元後六四年であった。イエスの時代には、「この神殿を建てるのに四十六年もかかった」と言われている(ヨハネ220)。
 イエスが神殿の崩壊を予言されたのは、弟子たちだけでなく外の人々も聞いていた。おそらく神殿粛清の時(他の時の可能性もある)なんらかの表現で神殿の崩壊を語られ、それを祭司長や律法学者を含む多くの人々が聞いたのであろう。そのことがイエスを殺そうとする直接の動機となり(マルコ1118)、イエスの裁判の時に、「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」という訴えとなり(マルコ一四・五八、マルコは五七節でこれを偽証としているが、それは言葉遣いについての捏造であって、イエスが神殿の崩壊に触れられた可能性は残る)、さらに、十字架の上のイエスに対する、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(マルコ一五・二九)という通りすがりの者の嘲笑の言葉となったのである。
 神殿は神の民としてのイスラエルの存立の拠り所である。その神殿の崩壊を公然と語るような者をどうして生かしておくことができようか。昔、神殿の壊滅を予言した預言者たちも迫害され、エレミヤは死刑にされるところであった。イエスは自分の命をかけて神殿の崩壊を予言されるのである。地上のイエスの働きを預言者としての面からみると、イエスはイスラエルの最大の歴史的出来事の直前に、それを予言すべく神から遣わされた預言者である。バビロン捕囚の前には多くの預言者が遣わされた。いま、はるかに重大な出来事を前にして、一人の預言者も遣わされないことはあろうか(アモス三・七)。いま、イエスは真に神から遣わされた預言者として、イスラエルにその避けられない壊滅を語られるのである。この言葉が事後予言でないことは、実際には七十年に神殿は炎上して滅びるのであるが、イエスの言葉には火災を示唆する表現がないことからも十分うかがわれる。「崩されないままの石の上に残る石は一つもないようになる」という表現で、イエスは建造物の破壊のされ方を予言されたのでなく、神殿を拠り所とするユダヤ教の宗教体制の徹底的な壊滅を予言されたのである。
 

聖書報告:ルカによる福音書21章5~6節「神殿の崩壊を予告する」報告者 依田欣哉

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年11月20日(水)20時21分5秒 softbank220000198065.bbtec.net
返信・引用 編集済
  「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに太の石の上に残る事がない日が来る。』」
並行記事:マタイ24章1-2節、マルコ13章1-2節。:マタイ、ルカでは「弟子の一人が言った。」となっている。
 イスラエルの歴史の中で神殿の歴史は古く、ダビデの時代までさかのぼる。ダビデは神の住処(=神殿)を建てることを神に問うと「私はこれまで家に住まず、また家を建てる事を求めた事もない」(サムエル記下7章6-7節)と素っ気ない返事。またダビデが神殿建設の準備に取りかかると神はあなたは多くの戦争で血を大地に流したのでその手で建ててはならない」と禁じられたためダビデはその意志をソロモンに託した(歴代誌上22章8節)。ソロモンは壮大な神殿(列王記上515-751、BC10世紀)を建築したが約400年後イスラエルは滅ぼされ同時に神殿も崩壊した。BC515バビロン捕囚解放後、神殿は再建築(第2神殿)されたが、みすぼらしい物であったと言う。その後ヘロデ大王の時代に壮大な神殿に大改築された(ヘロデ神殿、BC20年)。神殿建設に際して、神様から注目すべき言葉が与えられている。「ソロモンが主の御前に全き歩みをするならば、 ダビデに約束したように、ソロモンの王国の王座をイスラエルの上に永遠に確立する、 逆にソロモンやその子孫が主のおきてに従わないで偶像に仕えるならば、 イスラエルをその地から断ち、神殿も捨てる。」(列王記上6-7節)イエス様の言葉(ルカ13章)は正に神様のこの言葉と呼応している。
 神殿は神の住処として位置づけられており、ユダヤ教の極めて重要な拠り所であった。同時に人の手によって建設された物であり、国の繁栄の象徴としてみられ、王の権威の象徴と受け止められた。他方、多数の祭司等が神殿運営の任にあたり、特権階級として民衆を支配し、その権威に甘んじ人間的堕落が発生する事は、歴史の示すところである。イエス様はそうした、人間の手による建築物は所詮崩壊する物である事をしばしば語っておられる。
ヨハネ2章18-20節、マルコ14章58節神殿を打ち壊し、3日で建て直してみせる」、ルカ12章27-28節『ソロモンの栄華の極みの時でさえ、その装いはこの花の一輪にも及ばない』。ルカ13章31-36節「エルサレムのために嘆く」35節みよ、お前達の家(神殿)は見捨てられる。」
また、神殿を支え民衆を支配する祭司・ファリサイ人・聖書学者らを厳しく批判しつづけた。

神殿の崩壊の予告を、事後預言であるとする学説があるが、その点に関して検討してみる
 この記事はマタイ、マルコ、ルカすべてにあり、マルコが原典であると考える。
エルサレム神殿はユダヤ戦争(68年~74年)の時、70年ローマ軍により炎上破壊される。イエス様の言葉は、これより約40年前の事。正にエルサレム神殿崩壊の預言としてとらえる事が出来る。

これがイエス様は直接言われてはいなくて、マルコあるいは後の筆記者の書き加えである(事後預言)とするのであれば、少なくとも、
①マルコ伝成立は70年よりも後でなければならない。
②後の加筆であると言うのであれば、それを言うための説得力のある論証が必要であろう。
②であることを示唆する積極的な理由は文脈の中からは一切見出せないのでこれは無いだろう。色々な論証による推定は、AD50-70年とされている。

ローマ支配下にあり、ユダヤ人全体(支配階層も、民衆も)はそのことを極めて屈辱的なことととらえられていた。ユダヤ戦争が68-74年であるから、マルコ伝成立の時代は、正にローマ帝国との緊張関係が頂点に達し、時代が沸騰していたときである。70年以降を積極的に示唆する情報はなく、聖書の文脈からその点を示唆する内容も無い。

そうした観点から、「神殿の崩壊の預言」を見ると、これをあえて事後預言としなければならない積極的な理由を見出すことができない。

イエス様はしばしば人の手によって造られた神殿はいずれ崩壊する事を言及されている。ここでも、イエス様の言葉は極めて簡単で、どちらかと言うとい弟子たちが手放しでエルサレム神殿の豪華さを賞賛した事に対して、「人の手でつくられた形あるものはこの神殿でさえ、(第一神殿と同様)完全に破壊される時が来る」と一般論を言っているに過ぎない様に聞こえる。むしろ事後預言とする結論が先にあって、70年以後との推論が出てきているように思う。神殿はユダヤ人にとって神の住処でありエルサレム神殿が壊される、などと言う事を声高に言えば、反逆罪で捕われた時代だし、そうでなくとも命が狙われている時であるから、一般的に物質主義的な捉え方をたしなめる、と言った意味に弟子たちは受け止めただろう。他方、イエス様は既に死を覚悟しておられたからあえて公然と話されて弟子たち以外の人にも知らせ同様の内容を何回もいっておられると考えることも出来る。:「神殿を打ち壊し三日で建て直すと言っている」と証言する者が数人いた(マルコ1458)。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ219-20)。イエス様の言葉を直接あるいは間接に聴いている人々は、40年後実際にエルサレム神殿が崩壊した現実を目の当たりにして、イエス様の言葉が成就したことを実感し、深く胸に刻み込まれたことだろう。   2013年11月10日 依田欣哉
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №222

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年11月20日(水)19時57分28秒 softbank220000198065.bbtec.net
返信・引用
  前回の報告
2013年11月10日 午前10時から 出席者:5名

聖書集会 10:10~12:00
     司会:檜垣徹
    讃美歌:164番
   聖書朗読:ヘブライ人への手紙第9章15~22節
     祈祷:檜垣徹
   聖書輪読:哀歌第2章1~22節

   聖書報告:依田欣哉 ルカによる福音書第21章5節~6節
      「神殿の崩壊を予告する」

   感想・感話
    讃美歌:495番
     祈祷:依田欣哉
昼食

内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
    求安録 「上の部 悲嘆、内心の分離」続き(P75~80)


次回の予定
 2013年11月24日 午前10時から
聖書集会
   司会:田中直子
   報告:下澤悦夫 コリントの信徒への手紙Ⅰ 第10章23節~第11章1節
         「すべてを神の栄光のために」
昼食

エクレシア研究会  13:00~14:30
  報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論Ⅵ」


      ********************

□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)下澤悦夫(℡052-913-1441)
       田中直子、檜垣  徹
 

第四回 テサロニケの信徒への手紙 Ⅱ 3章1節~18節 報告者 田中直子

 投稿者:依田欣哉  投稿日:2013年10月31日(木)14時49分48秒 FL1-27-127-77-67.aic.mesh.ad.jp
返信・引用
   前回の所では、教えを固く守り続ける重要性、尊さを再認識。今回は3章で、「わたしたちのために祈って下さい」と「怠惰な生活を戒める」と「結びの言葉」。

1:・・わたしたちのために祈って下さい。パウロは信徒たちを思って祈っているが、信徒たちにもパウロのしている業について祈ってほしいと。遠い場所で祈り合うことで信仰的につながる。

2:わたしたちが道から外れた悪人どもから逃れられるようにと祈ってください。悪人というのは一説によるとアテネにいる彼の反対者ではないかと。しかし時間的に第1の手紙よりも前の時期になるので変。パウロがここで気にしているのはコリントのユダヤ人だという説の方がもっともな気もする。
すべての人に信仰があるわけではないのです。どの時代にも、どの国でもすべての人が信仰を持っていたわけではない。パウロのこの言葉は現実の厳しさを冷静に語っている。

3:4:・・主は真実な方です  真実(faithful)→信頼できるの意味。この世はいつも神に敵対する者がいて、その誘惑(悪)からのがれられないけれども、主は裏切らない。パウロの命令を実行して。

5:・・主があなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせて下さるように。パウロは信徒を信頼し、信徒はパウロに敬意をはらう。この信頼関係がテサロニケの信徒たちに義務を感じさせるのかもしれない。キリストの忍耐=迫害に対して耐えることのできる心。

6:・・主イエスキリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。まず、パウロから福音の教えを受けて知っているにもかかわらず、きちんと働かない人がいたということ。この事についてNTDでは「労働嫌悪」の人たちがいたという。つまり、終末がすぐにでも来るかも知れないという言葉を「終末はすぐ来る」とし、仕事に意味をみいだせない人たちがいた。仕事をしない生活をパウロが認めているわけなはく、怠惰な人を避けなさいという。

14:・・従わない者がいれば、その者には特に気をつけて関わりを持たないようにしなさい。この手紙というのはこの第二の手紙。パウロの剣幕は強硬で、絶交をもやむをえないという様相。

7:8:9:あなたがた・・よく知っています。わたしたちはそちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。パウロは自分を模範として持ち出す。なるべく依存しないで生きていた。

10:・・わたしたちは「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。テサⅠの4章に自分の手で働くようにとあるが、それより厳しい。「働けない」者に対する援助はあるが「働きたくない」者というのは怠慢。「働かざる者、食うべからず」の慣用句はこのテサロニケⅡが元。

11:・・あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいる・・仕事をする=ergazomenous   余計なことをする=periergazomenous 語呂あわせになっている

12:・・自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。「落ち着いて仕事を」とは「静かに働いて自分で得たパンを食べるように」と言う訳も。焦って、終末の心配ばかりではいけない。

13:14:15 :たゆまず善いことをしなさい。・・その人を敵とは見なさず、兄弟として警告よい働きをしなさい。厳しくはあっても敵にしてはいけない。戒めることは大切だが深入りはいけない。

16:17:18どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、・・平和をお与え下さるように。

 テサロニケ信徒への手紙をまとめてみる。主の再臨を強調し、それはいつなのかは分からない、だから日々現実の生活の中できちんとすべき事をしていかなくてはいけない、という主旨。イエスの福音を信じた者は、そのことで迫害もあるかも知れない、逆境に陥ることもあるかもしれないけれど,静かに働きなさい、そのことをパウロは自分の生き方を通して示している。そして、信じた人たちは働くことで自分が満足して終わるのでなく、他のあなたを必要とする人のためにも働くべきと言っている。テサロニケの信徒に対して祈り、パウロも信徒たちに祈ってほしいとの言葉の中にお互いに信仰の交わりがあることも示されている。怠けている者を戒めると同時に弱い人を助けなさいということも忘れてはいけない。
                                      (文責 田中直子)2013/10/27
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №221

 投稿者:依田欣哉  投稿日:2013年10月31日(木)14時44分59秒 FL1-27-127-77-67.aic.mesh.ad.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年10月27日 午前10時から 7名
聖書集会 10:10~12:00
     司会:檜垣徹
    讃美歌:332番
   聖書朗読:エフェソの信徒への手紙第4章17~24節
     祈祷:檜垣徹
   聖書輪読:哀歌第1章1~22節

   聖書報告:田中直子 テサロニケの信徒への手紙二第3章1~18節
   感想・感話
    讃美歌:502番
     祈祷:田中直子
昼食
*エクレシア研究会は都合により延期


次回の予定
 2013年11月10日 午前10時から
   *聖書集会
    司会:檜垣徹
    報告:依田欣哉 ルカによる福音書第22章1節から
   *昼食
   *内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
        求安録 「上の部 悲嘆、内心の分離」続き(P75下段9行目より)


     ***************************

□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)、下澤悦夫(℡052-913-1441)、田中直子、檜垣  徹
 

創世記第1章1~2節 天地創造 報告者 檜垣徹

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年10月26日(土)17時47分18秒 180-199-43-159.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  神の創造の業に関する記述は聖書の中に数多く見られる。それらによって私達は、神は唯一であって、ものの存在は目に見えるものも見えないものも全て神の創造によるものであり、神が全てを支配されていることを知ることができる。神の絶対性、偉大さは聖書の各所で称えられ、また神御自身が、神とは何かを人に知らしめるために創造について語られる。
私達は自分の置かれた世界で見聞きし経験した事を通してしか物事を理解することができない。聖書の記述に対しても自分達の経験に置き換えて理解しようとする。それができない部分については聖書の言葉をそのまま受け止めるしかない。
「初めに、神は天地を創造された」(創1:1)。神は「アルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」(黙21:6)。時を超越した存在、時間に縛られる私達とは異なる存在である。創造については、「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。」「主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。」(詩33:6,9)と書かれている。そして「言葉」については、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハ1:1~3)と記述されている。この「言」は、私達の想像できる音声言語、視覚言語、書き言葉、様々の思いを含むのは勿論のこと、遙かに大きな概念までも含むものであって、それはまたキリストであり神なのである。創世記1章では、「神は言われた」と表現されているだけだが、何らかの形で(としか言いようがないが)御子であるキリストもそこに存在している。
そして、「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロ1:15~17)
またソロモンは、「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた、深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。・・・」(箴8:22~)と語る。ソロモンもまた(何らかの形で)生み出されていたという。この記述は、「小羊の命の書に名が書いている者」(黙21:27)を思い起こさせる。彼らもまた何らかの形で初めから存在しているのだろうか。
神は「天を創造し、地を形づく」(イザヤ45:18)られたが、単に物質を造られただけではない。自ら養分を円に取り入れて成長する生物、動き回る動物も創造された。そして、複雑で精緻を極めた肉体と精神を持つ人をも創造されたのである。これこそが創造の業の最大のものである。そして神はそれらを、「混沌として創造されたのではなく、人の住む所として形づくられ」「固く据えられた」(イザヤ45:18)地に置かれた。また神は、目に見えるものだけでなく目に見えないものも創造された。神は「光を造り、闇を創造し」、この世界に現れる状態、すなわち「平和をもたらし、災いを創造する」(イザヤ45:7)。また人が心に感じそれによって突き動かされるものをも創造された。イザヤ書45章8節[天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。わたしは主、それを創造する。]では、「露」(潤い、慈愛を表すものか)「正義」「救い」「恵み」があげられているが、その他にも、人の心に働き掛ける様々なものがある。そしてそれらを通して、人間相互の関係も形づくられてゆく。それはキリストを頭とする体であって、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(エフェ4:16)。
終わりの時に神は[新しい天と新しい地を創造する](イザヤ65:17)。そこへと向かいつつある中で神は言われる。「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(イザヤ65:18)。そして、「初めであり、終わりである」神は、「わたしは初めからすでに、先のことを告げ、まだ成らないことを、すでに昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(イザヤ46:10)と言われるのである。
                       2013年10月22日記 檜垣徹
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №220

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年10月26日(土)17時40分33秒 180-199-43-159.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年10月13日 午前10時から 出席者:7名
聖書集会 10:10~12:00
     司会:下澤悦夫
    讃美歌:139番
   聖書朗読:ヨハネ黙示録第22章12~13節
     祈祷:下澤悦夫
   聖書輪読:エレミヤ書第52章1~33節

   聖書報告:檜垣徹 創世記第1章1~2節

     感想・感話
    讃美歌:530番
     祈祷:檜垣徹

昼食

内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
  求安録 「自序に代う」「上の部 悲嘆、内心の分離」(P69~75)


次回の予定
 2013年10月27日 午前10時から
*聖書集会
司会:檜垣徹
  報告:田中直子 テサロニケの信徒への手紙二第3章1節から
*昼食
*エクレシア研究会 13:00~14:30
  報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論Ⅵ


     ********************************************


□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)下澤悦夫(℡052-913-1441)
       田中直子(℡0567-94-3222)檜垣  徹(℡0584-64-4784)
 

聖書報告:偶像への礼拝に対する警告(コリント前書10.1-22)報告者 下澤悦夫

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年10月13日(日)21時53分13秒 180-199-43-159.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  「偶像に供えられた肉を食べることが許されるか」とのコリント教会の質問に対するパウロの回答書(8.1-11.1)を四分割し,今回は分割した第3の部分「偶像への礼拝に対する警告」(10.1-22)を取り扱う。

出エジプトにおけるイスラエル40年の荒れ野の旅は「雲の中」「海の中」を通る旅であった。その旅の中で,イスラエルは皆が同じようにモーセに属するものとなる洗礼を授けられ,離れずについてきた「霊的な岩」であるキリストから霊的な食物と霊的な飲み物を与えられたのである。
ところが,イスラエルの大部分は神の御心に適わず,悪をむさぼったために荒れ野で滅ぼされた。
このモーセ時代の出来事は,パウロの時代のエクレシアのあり方のモデルとして,また,キリスト信徒を戒め,警告するための前例として起こったのであると,パウロは言う(10.1-6)。

イスラエルがむさぼった悪は次のようなものである(10.7-11)。
第1は偶像を礼拝したことである。「民は座って飲み食いし,立って踊り狂った」。
第2はみだらなことをしたことである(Ⅰコリ7.2参照)。
第3はキリストを試みたことである(マタイ4.7参照)。
第4は不平を言ったことである。イスラエルの荒れ野の旅の歴史は「時の終わりに直面している」(10.11)当時のキリスト信徒に対する警告として伝えられて来ているのである。

そこで,パウロは神の御心に適うように注意して生きるようにと勧める。
わたしたちは,試練が襲い困難な状況に直面すると神の御心に適わぬ行動をしようとする誘惑に陥る危険がある。
イスラエルが荒れ野で当面したのはそのような危険であった。
神は真実な方であるから,私たちに耐えられないような試練に遭わせることはない。
それに耐えられるように逃れる道をも備えていてくださる。そのようにパウロは励ますのである (10.12-13)。

「偶像礼拝を避けなさい」(10.14)。それがここでの最重要の問題である。あなたがたは分別ある者であるから,偶像礼拝となる行為かそうでない行為であるかを,自分で判断しなさいと,パウロは言う(10.14-15)。
エクレシアがキリストの血である杯とキリストの体であるパンに与ることは,全体が一つのキリストの体になることである。
偶像の祭壇に供えられた肉を食べる者は祭壇の偶像に関わる者となる。偶像に献げる供え物は悪霊に献げているのである。
主の杯と悪霊の杯とは関わりなし,主の食卓と悪霊の食卓とは関わりなしである。
悪霊に関わることを主は怒り給う(10.16-22)。
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №219

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年10月13日(日)21時48分16秒 180-199-43-159.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年9月22日 午前10時から 出席者:7名

*聖書集会 10:10~12:00
     司会:檜垣徹
    讃美歌:142番
   聖書朗読:出エジプト記第32章1~6節
     祈祷:檜垣徹
   聖書輪読:エレミヤ書第51章33~64節

   聖書報告:下澤悦夫 コリントの信徒への手紙Ⅰ第10章1節~22節
          「偶像への礼拝に対する警告」

   感想・感話
    讃美歌:215番
     祈祷:下澤悦夫
*昼食

*エクレシア研究会 13:00~14:30
      報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論Ⅴ」 


次回の予定
 2013年10月13日 午前10時から
*聖書集会
  司会:下澤悦夫
  報告:檜垣徹 創世記第1章1~2節
*昼食
*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30 


    ********************


集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)下澤悦夫(℡052-913-1441)
       田中直子(℡0567-94-3222)檜垣  徹(℡0584-64-4784)
 

聖書報告:ルカによる福音書21章1~38節 「やもめの献金」他 報告者 依田欣哉

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 9月17日(火)10時51分50秒 180-199-46-120.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  * やもめの献金(1-4節):マルコ12章41-44節。レプトン銅貨2枚:100~200円。「乏しい中から生活費を全部入れた」。お金と言うこの世の富の金額(物理的な量)よりも、献金をする個人の内面(=信仰、質)の問題をイエス様は語られたのだろう。それにしてもこの貧しいやもめの明日の生活はどうなるのだろう。イエス様の貧しい者達への温かい眼差しを感じる。エルサレム神殿の大理石で出来ている壮大ではあるが無機質で冷たい建築物と貧しい寡婦の信仰心。

* 神殿の崩壊を予告する(5-6節):マタイ24章1-2節、マルコ13章1-2節。金持ち達の献金などによって、国家的な規模で造られた神殿も所詮人の手によって造られたもので、時がくれば崩壊する。その崩壊をもたらす原因は人の心の乱れであり、人の罪に帰せられる。神殿の崩壊は何度となく言及されている。野の花の教訓:ルカ12章27-29節。「栄華を極めたソロモンでさえこの花の一つほどにも着飾っていなかった。」ソロモンの神殿(列王記上5章15-7章51節、BC10世紀)、第2エルサレム神殿(BC515バビロン捕囚解放後)、ヘロデ神殿(BC20年)。ルカ13章31-36節「エルサレムのために嘆く」。「みよ、お前達の家(神殿)は見捨てられる。」

* 終末の徴(7-19節):マタイ24章3-14節、マルコ13章3-13節。ルカ17章20-37節「神の国が来る」。
 ルカ12章49-53節「分裂をもたらす」。ルカ13章1-4節「悔い改めなければ滅びる」

* エルサレムの滅亡を予告する(20-24節):マタイ24章15-21節、マルコ13章14-19節。
第一次ユダヤ戦争:帝政ローマとユダヤとの戦いAD(Anno Domino:anno1年、dominiキリストの支配)68-74年。70年エルサレム陥落、74年マサダ陥落。フィライウス・ヨセフス「ユダヤ戦記」。
第二次ユダヤ戦争132-135年、バル・コホバの乱。
イエス様が十字架上で亡くなり復活・昇天されるのが、AD30年頃であるから、エルサレムの滅亡と神殿の崩壊はわずか40年後ということになる。ユダヤ人は一神教の故を持ってローマ帝国に対して激しく抵抗し戦い踏みにじられる。AD60年頃はネロ皇帝(在位54-68年)による激しいキリスト教徒弾圧下にあった。イエス様生誕の前後100年位はローマ帝国の成立、ユダヤ教の成熟と堕落(律法主義の限界)、ローマ帝国への反抗と敗北、等時代が煮えたぎっていたように思える。終末観の醸成、救世主の登場を期待する。そうした社会的な環境の中で、キリスト教は静かに、燎原の火の如くに広まる。ローマ帝国において奴隷階層の中に深く浸透し、のみならず支配階層の心をも捉える。
イエス様のエルサレム滅亡の予告は、極めて現実的な預言であった。わずか40年後のその預言が実現し、神殿は完全に破壊され、イスラエルはローマの属国となる。

*パウロを始めとして多くのキリスト教信徒が、終末の時は今すぐにでも来ると信じるに足る理由があった。
* 人の子が来る(25-28節):マタイ24章29-31節、マルコ13章24-27節。
* 「いちじくの木」のたとえ(29-33節):マタイ24章32-35節、マルコ13章28-31節。ルカ12章54-56節「時を見分ける」。ルカ12章6-9節「実のならないいちじくの木」のたとえ。マルコ11章12-14、20-25節「いちじくの木を呪う、枯れたいちじくの木の教訓」

* 眼を覚ましていなさい(34-38節):マタイ24章36-44節、マルコ13章32-37節、ルカ12章39-40節。

* 今回の報告ではルカ1章全体を概観した。いよいよイエス様が逮捕され処刑されるに至る具体的な記述に入る最後の段階での、イエス様の預言とも言えるメッセージがこめられている部分であったから、当時の社会的背景を考慮しつつ、イエス様の言葉の理解を努めた。「やもめの献金」の話はマルコでは一つ前の章(12章)に入れられている。マタイにはこの記述は無い。

* 次の報告で、イエス様の社会への警告とも受け取られる予言者的な言辞に関して、さらに詳しく学んでみたいと思う。
                        2013年9月8日  依田欣哉
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №218

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 9月17日(火)10時41分3秒 180-199-46-120.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年9月8日 午前10時から  出席者:6名

*聖書集会 10:10~12:00
    司会:田中直子
   讃美歌:56番
  聖書朗読:歴代誌上第29章10~20節
    祈祷:田中直子
  聖書輪読:エレミヤ書第51章1~32節

  聖書報告:依田欣哉 ルカによる福音書第21章1~38節
  感想・感話
   讃美歌:517番
    祈祷:依田欣哉

*昼食

*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
  テキスト「キリスト信徒のなぐさめ」 第6章「不治の病にかかりし時」


次回の予定
 2013年9月22日 午前10時から
*聖書集会
   司会:檜垣徹
   報告:下澤悦夫 コリントの信徒への手紙Ⅰ第10章1節~22節
        「偶像への礼拝に対する警告」
*昼食
*エクレシア研究会 13:00~14:30
  報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論Ⅴ」


    ********************


□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)下澤悦夫(℡052-913-1441)
田中直子(℡0567-94-3222)檜垣  徹(℡0584-64-4784)
 

聖書報告:第三回 テサロニケの信徒への手紙Ⅱ2章13~17節 報告者 田中直子

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 9月 8日(日)18時25分22秒 180-198-178-182.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
   前回は、2章1節から12節までの「不法の者についての警告」の所で、主の日が来てしまったかのように言う人たちがいても決して慌ててはいけない、「自分が救い主」などという者が現れてもめったに信用してはいけない、主の日が来るには段階がある。というのがパウロの論点だった。

「救いに選ばれた者の生き方」
13:文を単純にすると、兄弟たち、・・わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、・・・神はあなたがたを救われるべき初穂としてお選びになった。「あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰によって」が修飾語という構文になる。
聖なる者とする“霊”の力=神の霊によって清くされること。真理に対する信仰=真理を信ずること。初穂(απαρχη)、最初に生まれた子を特別とし(創世記4-4、)最初の穂を神に捧げる特別のよきものとする考えから、誰よりも先に神に捧げられた人という意味。
気持ちが動揺している信徒たちの救いの確信を強めるとともに、選ばれた者としての責任の大きさをも意識させている。
14:神は・・あなたがたを招かれた。神の恩恵による選びが実現されると、それが変わらず続いていくことを人間に要求する。
15:伝えた教えを固く守り続けなさい。
 主の日が近いかどうかで動揺する人に対して現実的に今どうすべきか。信仰によって固くたち、手紙で伝えたことを守ることがまず前提。さしあたって世の中に起こる事に動揺することではなく自分自身の立場を守って前進すること。現在の信仰を持ったものとして責務を負うこと。
15節については「それだから兄弟たち、しっかり立って、口頭や手紙によってわたしたちから受けた伝承の教えに固執せよ」(NTD)という訳がある。岩隈直の訳「だから兄弟たちよしっかり立ってわたしたちの言葉によってであれ手紙によってであれ君たちが教えられた言い伝えをしっかり保持しておれ」。しっかり立って=パウロの好む信仰生活をいきいきと感じさせる比喩。ここで問題となるのは言い伝えの所で、新共同訳では手紙で伝えた教えとしているが、παραδοσεισと言う語は伝承とか教えの本質の意味。
著者の文化的、宗教的な背景が見られる。ユダヤ教信仰は本質的に「伝承」とそれを「受け取る」というもの。その手法をキリスト教のなかに取り入れてパウロはキリスト教伝承のいわば創始者のような感覚。(ちなみにテサロニケ第Ⅱの手紙はユダヤ人信者を対象としているのでは無いかという説もある)
16:主イエスキリスト御自身、ならびにわたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望と恵みによって与えて下さるわたしたちの父である神が(参考:申命記33-12)
17:どうかあなたがたの心を励まし、強め、いつも善い働きをし善い言葉を語る者として下さるように。
これはいわば教会内で信徒に語る祝祷のようなもの。結びの勧告の前に祭儀的な言葉でまとめている部分。教訓としてというよりは日常の業と言葉について祈りのパターンのようなものらしい。
タイトルは「救いに選ばれた・・」だが内容は「テサロニケの信徒のための感謝と勧告と祈り」。
                               文責 田中直子
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №217

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 9月 8日(日)18時22分7秒 180-198-178-182.nagoya1.commufa.jp
返信・引用 編集済
  前回の報告
2013年8月25日 午前10時から 出席者:17名、子供3名

聖書集会 10:10~12:00
   司会:依田欣哉
 聖書朗読:創世記第28章10~19節
  讃美歌:320番
   祈祷:依田欣哉
 聖書輪読:エレミヤ書第50章21~46節

 聖書報告:田中直子 テサロニケの信徒への手紙二第2章13~17節
     「救いに選ばれた者の生き方」
 感想・感話
  讃美歌:520番
   祈祷:田中直子

昼食 


次回の予定
 2013年9月8日 午前10時から
*聖書集会
司会:田中直子
  報告:依田欣哉 ルカによる福音書第21章1節「やもめの献金」から
*昼食
*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
  テキスト「キリスト信徒のなぐさめ」 第6章「不治の病にかかりし時」


       ******************


□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)、下澤悦夫(℡052-913-1441)田中直子、檜垣  徹
 

8月25日(日曜日)ゴーバル農場で出張集会を行いました

 投稿者:zebramedaka  投稿日:2013年 8月26日(月)20時14分13秒 180-198-178-182.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  25日は生憎の雨でしたが、名古屋から大人5名、子供3名がレンタカーにて午前8時に地下鉄本山駅前に集合し、出発しました。雨振りのため、時間が遅れる心配をしましたが、途中休み無し(休憩予定していたいつもの喫茶店も休み、串原朝市も休みでした)で直行したため、30分は約9時半頃に到着しました。岡崎しからは、Sさんご夫婦さんもほどなく到着。名古屋、岡崎から大人7人、子供3人。ゴーバルからはIK、IM、MS、KRさん、他若者達が大勢(6名)参加してくれました。賑やかな集会となり、司会者、報告者とも緊張気味となりましたが、良き集まりを持つことが出来たと思います。
集会後は、皆で歓談しつつ昼食をいただきました。
参加された方々の感想、ご意見などを投稿していただけると嬉しいです。今後の参考になるかと思います。よろしくお願い致します。
 

ヨハネの黙示録 第22章 6節~21節 報告者 檜垣徹

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 8月16日(金)22時41分22秒 180-198-178-182.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  預言者の受けた預言の言葉や、預言者の見たものには、一般の人々には秘密にされるものがある[七つの霊が語ったとき、わたしは書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの霊が語ったことは秘めておけ。それを書き留めてはいけない」というのが聞こえた(黙10:4)。
彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです(Ⅱコリ12:4)。]。普通の人々には知らされないが預言者には知らされるもの。私たちが知るのは適当ではないが預言者には知らせておくべきもの。私たちには,何か重要なものが存在するということしか分からない。
 しかしその中でも、ある適当な時期に私たちにも知らされるものがあり、その時期を「終わりの時」
と示す記述がある。[ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして知識は増す(ダニエル12:4)。]。ヨハネの黙示録22章10節では、「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない」と書かれており、その理由は、「時が迫っているから」というのである。
 来たるべきその時の情況のひとつは1章7節に記述されている[見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る。ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。]。ある人々にとっては嘆き悲しむ情況である。しかしその時、この世にあって様々に動揺しながらも信仰の経験を積み重ねてきた信仰者は、預言の言葉を十分に受けとめられるほど、霊的に整えられた状態に達しているだろう。
 その時に至るまで、全ての人々には悔い改めの勧めと機会が与えられ続けるが、その「終わりの時」は、信仰者とそうでない人々が完全に明らかにされる時でもある。小羊の命の書に名の記されていない人々は神に逆らい続け、神に従う人々を苦しめ続けるだけに終わってしまう。ここに至っては、
「不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしてお」(黙2:11)くしかない。一方信仰者は、その時に備えてますます自分を整えるようにと、「正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。」(黙22:11)と言われる。
 信仰者は、「大きな苦難を通って来た者で(果たして私たちは、大きな苦難を通って来たと言えるほどの信仰を持ち続けて来たのだろうか)、その衣を小羊の血で洗って白くした」(黙7:14)者であり、彼らについては、「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」(黙7:17)のである。
 そのためにキリストは、「見よ、わたしはすぐに来る。」(黙22:12)と言われる。キリストは「アルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(黙22:13)。過去から現在、未来に至るまでその存在は時を越えている。全てを知り支配される方。わたしたちの希望として輝く「明けの明星」。イエスは繰り返される。「然り、わたしはすぐに来る。」と。それに対してヨハネは、「アーメン、主イエスよ,来てください」と答え、「主イエスの恵みが、すべての者とあるように。」と結ぶ。   2013年8月16日 檜垣徹 記
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №216

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 8月16日(金)22時39分12秒 180-198-178-182.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年8月11日 午前10時から 出席者:5名
聖書集会 10:10~12:00
     司会:下澤悦夫
    讃美歌:174番
   聖書朗読:ローマの信徒への手紙第13章11~14節
     祈祷:下澤悦夫
   聖書輪読:エレミヤ書第50章1~20節

   聖書報告:檜垣徹 ヨハネの黙示録第22章6~21節
   感想・感話
    讃美歌:505番
     祈祷:檜垣徹

*昼食
*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)は延期


次回の予定
 2013年8月25日 午前10時から
*夏期特別集会
司会:依田欣哉
  報告:田中直子 テサロニケの信徒への手紙二第2章13節から
*恵那市串原の「山のハム工房ゴーバル」を会場として行います。地下鉄本山駅1番出口裏通り、8時に集合、出発の予定です。参加希望者は8月20日までに依田欣哉までご連絡下さい。詳細をお知らせします。


    *****************************


□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)、下澤悦夫(℡052-913-1441)
      田中直子、檜垣  徹
 

8月25日の聖書集会についてのお知らせ

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 8月15日(木)09時09分38秒 180-198-178-182.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  皆さんにお知らせします。8月25日(日曜日)にゴーバル農場(岐阜県恵那市串原)にて、名古屋聖書集会を開催させていただきます。例年子供たちが周りで遊びながらの和やかな聖書の学びの場であり礼拝となっています。聖書に興味のある方の参加を歓迎致します。
 10時集合、10時15分開催を目指しています。集会後一緒に昼食をいただきながら歓談したいと思います。各自お弁当持参と致します。
午後は自由に過ごします。
 ゴーバルに直接行かれる方は、ゴーバルの方に一声かけておいていただけると嬉しいです。名古屋からはレンタカーでまとまっていきます。地下鉄本山駅集合、8時出発の予定。参加希望の方は依田(080-5153-3953)までお知らせ下さい。
 

8月14日世話人会開催

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 8月14日(水)22時10分13秒 180-198-178-182.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  日曜日以外の日の臨時世話人会が初めて開催されました。現在の所世話人は、SE,YK, TN, HTの4名です。
詳しい内容は今後スレッド世話人会情報に書きますのでそちらの方をご覧下さい。
 

聖書報告:コリントの信徒への手紙二 9章1~27節 報告者 下澤悦夫

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 8月 3日(土)14時09分2秒 180-198-178-182.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  コリント教会からパウロに寄せられた「偶像に供えられた肉を食べることが許されるか」との質問に対するパウロの回答書(8.1-11.1)は四分割できる。今回は分割した第2の部分「使徒の権利」(9.1-27)を取り扱う。

先ずパウロは,自分がコリント教会に対して使徒としての特権を有していることを宣言する(9.1-2)。パウロは主イエス・キリストに出会って使徒となり,その働きによってコリント教会の礎を据えた。この歴史的事実は誰に対しても明らかになっている。しかもコリント教会がイエス・キリストに結ばれて存在しているという現実は,パウロがコリント教会に対して使徒であることの生きた証拠である。

次に使徒の権利の内容を説明する(9.3-12a)。使徒は教会に対して次のような権利を有しているとパウロは述べる。a使徒が建設した教会から飲食の提供を受ける権利,b結婚して妻とともに教会に加わる権利,c教会から生活の資の支給を受ける権利である。働いた者はその働きの成果を自ら取得する権利を有している。それは使徒であっても同様である。使徒は霊的な働きをしたのであるが,その対価として肉的な物を受け取ることが許されている。その根拠として「主は,福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと,指示されました。」とパウロは述べる(9.14)。

前回の分割した第1の部分「偶像に供えられた肉」(8.1-13)では,パウロは知識を有する信徒がその知識に基づいて行動する自由を放棄することが,愛の原理に適うことであるとし,自分も自分が有する自由の権利を放棄すると述べた。その実例として,パウロは自分の有する使徒の権利を放棄し,これを利用しないと述べる。そうせざるを得ないからである。それにより却って霊による報酬を得ることができる,というのである(9.12b-18)。

パウロは自分の有する自由の権利すなわち使徒の権利を使用しないで放棄した。自由の権利を使用しないで,反対にすべての人の奴隷になった。それは,ユダヤ人にはユダヤ人のように,律法に支配されている人には律法に支配されている人のように,律法を持たない人には律法を持たない人のように,弱い人には弱い人のように,そしてすべての人にはすべてのものになることなのである。その目的は,福音のためにすべての人を獲得するためである(9.19-23)。

運動競技に参加する選手がひたすら目標を目指して節制するのと同じように,自由を放棄して愛のため福音のための実践をする者は,自分の身体を打ちたたいて目的のために服従させるのである。節制するのである。朽ちない冠を得るために(9.24-27)。
                                (2013/7/28名古屋聖書集会 下澤悦夫)
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №215

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 8月 3日(土)14時01分35秒 180-198-178-182.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年7月28日 午前10時から 出席者:6名
聖書集会 10:10~12:00
     司会:檜垣徹
    讃美歌:271のb番
   聖書朗読:ルカによる福音書第10章1~12節
     祈祷:檜垣徹
   聖書輪読:エレミヤ書第49章1~39節

   聖書報告:下澤悦夫 コリントの信徒への手紙Ⅰ第9章1~27節
              「使徒の権利」
   感話・感想
    讃美歌:512番
     祈祷:下澤悦夫
*昼食
*エクレシア研究会 13:00~14:30
  報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論Ⅳ」


次回の予定
 2013年8月11日 午前10時から
*聖書集会10:10~12:00
     司会:下澤悦夫
   聖書報告:檜垣徹 ヨハネの黙示録第22章6節から
 *昼食
*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
  テキスト「キリスト信徒のなぐさめ」 第6章「不治の病にかかりし時」


       *********************************************

□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)、下澤悦夫(℡052-913-1441)
                      田中直子, 檜垣  徹
 

聖書報告:ルカによる福音書20章45~47節「律法学者を非難する」報告者 依田欣哉

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 7月22日(月)18時21分54秒 180-199-245-142.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  並行記事:マタイ23章1-36節(ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する)、マルコ12章38-40節(律法学者を非難する)、ルカ11章37-54節(ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する)、ルカ12章1-3節(ファリサイ人のパン種)

内容:「律法学者は、偉ぶること好み、上席、上座を好み、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。彼らは偽善者であり、人一倍厳しい裁きに会う。」

ルカ20章と、マルコ12章では非難の対象が律法学者に限定されている。ルカではもう一カ所(ルカ11章37-54節)ある。マタイは両者をまとめた形で記述し、独自の激しい非難を特にファリサイ派の人々に向けている。

マタイ23章1-36節(ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する)について学び考察する
一読しての感想は:とても厳しい批判でイエス様が「汝の敵を愛せよ」と愛の真理を説かれたこととどのように調和させるのか、読むことがつらい箇所です。
それに対してルカ11章37-54節では:記述内容は基本的に重複しているが、伝道のごく初期での出来事として描かれており、話の発端はファリサイ派の人に食事を招待された時、食前に手を洗わなかったことを不審に思われて、それに対する反論のような形で述べており、批判そのものの厳しさがかなり緩和されている。
マタイで書かれているような教義的な批判ではなく、食事に招待されたファリサイ人達に言った言葉としてイエス様の感情のほとばしりとして受け止めることが出来る。食事に招待される点において、イエス様はファリサイ派の人々のある部分の人から敬われていた。
ルカでは律法学者とファリサイ派を区別している。ファリサイ派のある人々はイエス様を尊敬している。それに対して律法学者達に対しては、非常に手厳しい批判をして、「アベルとゼカリアの血に対する責任を負わなければならない」とのイエス様の言葉を律法学者に対するものとしている。ファリサイ人とはユダヤ教の中で、律法を尊重しそれらを実践的に厳格に守ろうとする信仰的立場を取る人々全体。律法学者は社会的な地位として確立した人たち。
たとえばキリスト者(あるいはピューリタン)と牧師(あるいは司祭)との違い、と考えると解りやすいであろうか。
マタイでは:ファリサイ派の人々と律法学者とをひとくくりにして批判している。
全面的、教義的・律法的で非常に手厳しい。
これらに関しては、マタイ、マルコ、ルカそれぞれの記者のイエス様理解、伝えようとする意図、対象とする読者層等の違いが反映されていると見るべきであろう。

重要な点は、イエス様ご自身は律法そのものの本質・意図に対しては否定していない事だろう。ファリサイ人、律法学者達、イスラエルを信仰的に導くべき立場に立つ人々が、自己保身・自己利害あるいは人間的傲慢さ、欲のために、律法の根幹を無視している点を指摘されている。イエス様は幼少時からすべてのユダヤの少年と同じようにラビの説教から学び、律法を基礎とする伝統的な聖書理解(ファリサイ派の熱心、敬虔)から出発し、そして成長するに及んで次第に違和感を覚え、訣別した(古い葡萄酒は古い革袋に、新しい酒は新しい革袋に)。内村鑑三先生は、「山上の垂訓はファリサイ派との訣別の辞である」と解説している。マタイによる福音書に書かれているファリサイ人・律法学者に対する仮借なき厳しい批判は、人の罪を指摘していると言える。その点で私たち自身への批判として厳粛に受け止めるべきであると思う。

内村鑑三先生の理解(内村聖書注解9巻ルカ伝、p189):パリサイ人のパン種とは主義である。精神である。イエスの言葉から、当時のパリサイの人が今日我らの間に見るがごとき偽善者であったことがわかる。しかし偽善とは単に外の善をもって内の悪を飾ることばかりではない。今のいわゆる偽善者のみがイエスが言い給いし偽善者ではない。パリサイの人は全体に誠実の人であった(ロマ書102)。しかも彼らは偽善の人であった。ヒポクリテス(偽善者)=俳優は人に見られるために事を行う。外形を重んじ、事業、功績、公衆の耳目を集める事を目的とする。伝道者は演技的になりがちである。

私は思う:これは他者との関係を如何に構築するか、という問題に帰着されるのではないだろうか。旧約聖書のモチーフであり、それは神様とイスラエル民族との間の契約の中心課題でもあります。出エジプトに於ける40年にわたる荒野の経験の中でモーセ律法として結実したのだと思う。律法はその意味に於いてイスラエル民族にとっては不可欠な神との契約の具現化です。しかし、文字の限界は人の罪によりその生命を失い、形骸化する運命をも有しています。
律法を守る事をすべてに優先させる。これが律法主義である。律法主義はその根底にある精神を失いがちであり、その命が枯渇すると単に世間体を取り繕う自己保身に陥る。そして、他者への愛を忘れ自己正義・世間体ばかりを気にして、行動自体が自己弁護的になる。イエス様は、最も真面目で熱心であったファリサイ人達が、いつの間にか律法の持つ本来の生命を失い、単に自己正義ばかりを気にする愛なき自己保身家に陥ってしまった情況を深く失望し、彼らの律法主義から訣別する事を使命と認識された。イエス様は「律法を完成させるもの、それは愛である」と言われています。人の住む現実は、現実であって観念ではありません。イエス様のたどられた道は、現実的には敵を作らずには済みませんでした。これから学ぶように、イエス様の厳しい非難は人々の激しい憎しみをもたらし、命を狙われ、ご自身は何ら罪無く十字架刑によって処罰されます。イエス様覚悟の上の事でありました。ですから、イエス様のとても厳しい批判は、命がけの行為であり、神様から課せられた使命の遂行であったのだと思います。そして私達自身が持つ、人としての罪に対する批判として、自分の問題として受け止めるべき事なのだと思います。
                        2013年7月14日  依田欣哉
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №214

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 7月22日(月)18時07分59秒 180-199-245-142.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年7月14日 午前10時 出席者:6名

聖書集会 10:10~12:00
     司会:田中直子
    讃美歌:491番
   聖書朗読:詩編第2編1~12
     祈祷:田中直子
   聖書輪読:エレミヤ書第48章1~47節

  聖書報告:依田欣哉 ルカによる福音書第20章45~47節
           「律法学者を非難する」

 感話・感想
   讃美歌:296番
    祈祷:依田欣哉
昼食

*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
  テキスト「キリスト信徒のなぐさめ」 第5章「貧に迫りし時」


次回の予定
 2013年7月28日 午前10時から
*聖書集会10:10~12:00
                司会:檜垣徹
   聖書報告:下澤悦夫 コリントの信徒への手紙Ⅰ第9章1~27節
        「使徒の権利」
 *昼食
 *エクレシア研究会 13:00~14:30
  報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論Ⅳ」


  ********************

□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)、下澤悦夫(℡052-913-1441)
      田中直子、檜垣  徹
 

第二回 テサロニケ信徒への手紙Ⅱ 2章1~12 報告者 田中直子

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 7月 4日(木)21時45分2秒 180-199-245-142.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
    前回は1章の「キリスト来臨と裁き」で、迫害と苦難の中で耐えていることの意味を学んだ。
今回は「不法の者についての警告」
1:2:主の日がすでに来ていると言う者もいるが、それは間違い。すでにその時が来たとか自分は救い主という者が現れても信用してはいけない。テサロニケⅠを補っているところと考えて良い。
3:主の日がいつ来るか分からないと言ったが闇雲にくるのではなく段階がある。まず、神に対する反逆(背教)がある。神を知らない者ではなく、むしろよく知っていたが神を捨ててしまう者が多くなる。罪が重い。そして不法の者が現れる。不法の者とは4節に具体的に書いている。
4:傲慢にふるまい、ついには神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言する者たち→不法の者
図参照「主の日はすでに来たか」という問題提起に対して、まだ来ていない。主の日が来るには段階があるからそれを吟味している。現在の状態は、不法が働いている。神に反する霊から出た力が働いている。けれどもそれが全てを支配しているのでもない。
5:6:7:抑えているもの→①国家権力と解釈(不法ものを縛っている天使の力を先ず考え、その天使の活動がローマ帝国において具体化されていると考えている)。もし著者がパウロであったとしても、ローマ帝国の国家体制をパウロは評価している(参考ロマ13-1)。
抑えているもの→②不法者を縛る力は福音であるという解釈。図には不法を阻む力と書いてある下に福音と信者と書いてある。富田先生は後者の考え。
 どちらの解釈でも現実は不法の力があるけれどもそれを抑える力とのバランスの上に成り立っている。いろいろ動揺はあるけれど最終的な形にならず、隠れて動いている状態。7節の不法の力を、内村鑑三はその当時「ニーチェの哲学、マルクスの経済論において不法の霊の働きを見、近代の恋愛論も一面の表現」(1924年2月)だと言っている。
8:その時が来る その時=主の時・再臨の時。天の審判者が武器も持たずに、口から出る白熱の火炎で、あるいは息をかけるだけで、敵を殺すということは旧約の預言でも言われる(イザヤ11-4)。この部分には非常に抵抗があるが、とても厳しいイエスの有様があって、不法の者を殺すとまで言っている。内村鑑三は「全ての権を父から賜わりしイエスが、おのれに逆ろうて立つ者を滅ぼすはただ一吹きのわざである。(略)あたかも、フクロウやコウモリが光に照らされてその跡を絶つがごとしである。」
9:不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行う。
10:そしてあらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺く。(あらゆる種類の不正な誘惑とを伴って、滅ぶべき者どもに対して起こる)彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる(福音の)真理を愛そうとしなかったから。
11:それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになる。
12:真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれる。偽りの奇跡にだまされないようにとイエスも警告している(マタイ24-24)。魔術師シモンは(使徒8-9)魔術を使って偉大な人物と自称していた。福音の真理を信じない者が裁かれるという結論になっている。

*段階を示す背景:歴史的にみて紀元前175頃アンティオキアエピファネスの下でユダヤ人が多く迫害に遭い異教への離反があったのだが、それをダニエルのような預言者が世の終わりに先行する兆候と言っていた。しかし、終末は来ないので延期されたと解釈されている。(マタイ24-4~14)
見方を変えると、イエスが現れたときユダヤ人にとってはユダヤ教の背教思想のようなものだから終末を期待することにもなった、という複雑な背景がある。         文責  田中直子
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №213

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 7月 4日(木)21時42分28秒 180-199-245-142.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年6月23日 午前10時 出席者:6名
聖書集会 10:10~12:00
    司会:檜垣徹
   讃美歌:194番
  聖書朗読:エフェソの信徒への手紙第5章6~20節
    祈祷:檜垣徹
  聖書輪読:エレミヤ書第47章1~7節

  聖書報告:田中直子 テサロニケの信徒への手紙二第2章1~12節
  感話・感想
   讃美歌:490番
    祈祷:田中直子
昼食

エクレシア研究会 13:00~14:30
  報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論Ⅲ」

次回の予定
 2013年7月14日 午前10時から
*聖書集会10:10~12:00
     司会:田中直子
   聖書報告:依田欣哉 ルカによる福音書第20章45~47節
         「律法学者を非難する」
 *昼食

*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
  テキスト「キリスト信徒のなぐさめ」 第5章「貧に迫りし時」

     *******************


集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)下澤悦夫(℡052-913-1441)
      田中直子 檜垣  徹
 

6月16日 易しく聖書を学ぶ会

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 6月17日(月)21時47分31秒 softbank220000198065.bbtec.net
返信・引用
  本日は4名で集会を持ちました。本日はTNさんが報告を担当して下さいました。
ヨハネによる福音書 第6章1~15節:5千人に食べ物を与える。
             16~22節:湖の上を歩く。

久しぶり(半年ぶり)にOKさんが長野から駆けつけてくれました。良い集まりでした。
内容については「易しい聖書」掲示板 ( http://6210.teacup.com/yasasiiseisho/bbs )をご覧下さい。
 

聖書報告 ヨハネの黙示録第21章22節~第22章5節 報告者 檜垣徹

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 6月17日(月)21時37分31秒 softbank220000198065.bbtec.net
返信・引用
  ヨハネの黙示録21章からは「新しい天と新しい地」、「新しいエルサレム」の記述である。

その新しい世界に対して、現在私達が住む古い世界は、「最初の天と最初の地」、「過ぎ去った」「最初のもの」である。これら二つの世界を対比してみると、新しい世界の特長、素晴らしさがよく分かる。

古い世界は罪の溢れた世界である。その世界で私達が神とまみえるには、特別に聖別された場所としての神殿が必要であった。その場所に神は降りて来て下さり、また人々はそこで清められ礼拝を捧げようとする。

一方ヨハネは、「都(新しいエルサレム)の中に神殿を見なかった(21:22)。」
新しいエルサレムは都全体が聖別されている。この中では常に神の臨在を感じることができる。
「全能者である神、主と小羊とが都の神殿(21:22)」である。
都の中のある特定の限られた場所というよりも、都全体が神殿と言ってよいのかも知れない。

古い世界は、太陽や月がなければ闇に覆われた世界である。闇は死、罪を表すものであり、もし闇しかなければ、それは暗く沈んだ、悲惨で救いのない状況だろう。その状況から脱するには光が必要である。太陽と月の光は一時的なものでしかないが、それが規則的に訪れることは人間にとって慰めである。

また人間は心の闇にももがいている。その闇にイエスという光が差し込んでいるが、人々の心は度々闇に覆われてしまう。しかし光の存在は人々の希望となる。

一方新しいエルサレムは、太陽や月がなくても常に光に満ちている。「神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである(21:23)。」だから夜はなく闇はない。人々はもはや、死、罪に煩わされない。

古い世界では、人々が飲むことを許された命の水も流れていないし、その実や葉を食べることを許された命の木もない。これが神に逆らう人間に与えられた状況だ。昔、人々は神に逆らったために、命の木があった場所から追放された。

一方新しいエルサレムでは、人は自由に命の水の川から飲むことができ、命の木から取って食べることができる。神に従い通した者にはそれが許されており、それらは人々の栄養となり薬となる。

古い世界では、人々は神の御顔を見ることは許されなかった。見ることは死を意味した。[出エジプト記33:20(主は)また言われた。「あなた(モーセ)はわたしの顔をみることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」、テモテへの手紙一6:16(神は)唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。]

しかし新しいエルサレムでは、[神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る(22:3,4)。]僕たちは「第一の復活にあずかる者(20:6)」で、「神とキリストの祭司となって(20:6)、」「世々限りなく統治する(22:5)」。
新しいエルサレムでは「もはや、呪われるものは何一つない(22:3)。」
                            2013年6月9日(日)檜垣徹記
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №212

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 6月17日(月)21時32分13秒 softbank220000198065.bbtec.net
返信・引用
  前回の報告
2013年6月9日 午前10時  出席者:5名
聖書集会 10:10~12:00
     司会:依田欣哉
    讃美歌:502番
   聖書朗読:ヨハネによる福音書第8章31~38節
     祈祷:依田欣哉
   聖書輪読:エレミヤ書第46章1~28節

   聖書報告:檜垣徹 ヨハネの黙示録第21章22節~第22章5節

   感話・感想
    讃美歌:244番
     祈祷:檜垣徹

*昼食

*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
  テキスト「キリスト信徒のなぐさめ」 第4章「事業に失敗せし時」


次回の予定
 2013年6月23日 午前10時から
聖書集会10:10~12:00
    司会:檜垣徹
  聖書報告:田中直子 テサロニケの信徒への手紙二第2章1節から

*昼食

*エクレシア研究会 13:00~14:30
  報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論Ⅲ」


    ******************************

集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)
      下澤悦夫(℡052-913-1441)
      田中直子
      檜垣  徹
 

「易しく聖書を学ぶ会」掲示板をつくりました

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 6月 5日(水)21時51分1秒 180-199-4-237.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  「易しく聖書を学ぶ会」(易しい聖書)の掲示板を改めて作成しました。
          http://6210.teacup.com/yasasiiseisho/bbs
そちらをご覧下さい。
 

6月2日易しい聖書

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 6月 4日(火)22時34分31秒 180-199-4-237.nagoya1.commufa.jp
返信・引用 編集済
  本日は二人でした。
創世記第32章2節~35章
  エサウとの再会の準備
  ベヌエルでの格闘
  エサウとの再会
  シケムでの出来事
  再びベテルへ

ラバンから逃げるようにして父親イサクのいるカナンへと旅立つ。イサクはエサウの怒りが収まっているか不安でならない。怒りがそのままであれば、エサウと再会した時に彼によって殺されるかもしれない。しかし、ヤコブももう一族を率いる立場になり、また11人の息子も抱える立場に立つようになった。出発の時にイサクからいつか戻るようにと言われ、神様からも再三にわたって、ヤコブ、イサクへの祝福をヤコブに与えるとの祝福の言葉をもらっている。彼はその言葉を信じて、カナンの地に戻る事を決意したのであろう。

しかし、それでも疑い深い、ことごとく綿密に計画をたてなければ止まない、心配性のヤコブにとって、神様からの祝福と同時に与えられた使命、他方ヤコブ自身の人間的性格から来る猜疑心、限り無ない心配。エサウとの再会を直前にした夜、彼は考えに考え、心配に心配を重ねて、夜安らかに眠ることができず、うなされていたのだろう。そうした時にベヌエルのヤボクの渡しで何ものかに会い格闘を延々と続ける。それはあたかも夢の中でヤコブがうなされて、自分自身のあらゆる心配と相対し、克服するために悩み苦しんでいる様を見ているかの様である。

その人は結局ヤコブに勝てないと感じ、ヤコブの股のを打ち間接をはずした。「もう去らせてくれ」「いやです、祝福して下さるまで離しません」、、、このものは神の使いであって、あらためてヤコブを認め、今後イスラエルと名乗るようにと祝福を与える。

イスラエル民族の基礎がここにあるのでしょう。人間的には決して好きになれないヤコブですが、神様からの目はヤコブと言う人間像全体を見ておられる。人間的には多くの欠陥と罪を抱えているヤコブとその子孫を祝福されたのはどの点においてであるかとても考えさせられるところがあります。

更に詳しい考察は「易しい聖書」掲示板で行います。http://6210.teacup.com/yasasiiseisho/bbs 新たに立ち上げました。
 

聖書報告:偶像に供えられた肉(コリント前書8.1-13)下澤悦夫 

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 6月 4日(火)20時24分40秒 180-199-4-237.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  コリント教会からパウロに寄せられた六つの質問の第2は「偶像に供えられた肉を食べることが許されるか」という問題である。
この質問に対するパウロの回答は8章1節から11章1節までにある。この回答を三分割して今回は「偶像に供えられた肉」(8.1-13)の箇所を取り扱う。
当時,食肉はその供給元から消費者の食卓に届くまでの流通過程において,宗教的な施設を経由することが一般的であり,しかもその宗教施設において肉を一旦偶像の神に捧げる儀式が施行されていたと推定される。

「偶像に供えられた肉について言えば」(8.1)との文句で始まっているが,それについて述べる前に,パウロはグノーシス思想の知識に基づく原理と福音の原理とを対比する。
「我々は皆,知識を持っている」(8.1)とはグノーシス主義者の言葉である。
それをパウロは引用する。グノーシス主義者は知識(グノーシス)を持つことを誇り,知識を持つ者は世と肉から解放されて絶対的な自由を得ていると主張した(参照「わたしにはすべてのことが許されている」1コリ6.12)。
知識はグノーシス主義者だけが持つものではなく,福音に立つ自分も持っているとパウロは主張する。しかる後,知識と愛との根本原理を対比し「知識は人を高ぶらせるが,愛は造り上げる」(8.1)と述べる(8.1-3)。

次に「偶像に供えられた肉を食べることについてですが」(8.4)と語り始めるが,それに続くのは「肉を食べること」についてではなく,知識(グノーシス)に基づく「偶像」の本質的な捉え方ないし考え方である。

パウロによれば「世の中に偶像の神などはなく,また,唯一の神以外にいかなる神もいないことを,わたしたちは知っています。現に多くの神々,多くの主がいると思われているように,たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても,わたくしたちにとっては,唯一の神,父である神がおられ,万物はこの神から出,わたくしたちはこの神へ帰って行くのです」(8.4-6)。キリスト者にとって,唯一の父なる神および唯一の主イエス・キリストを除くと他の偶像の神々はすべて被造物に過ぎず,単なる物なのである(8.4-6)。

知識(グノーシス)を有しないキリスト者(「ある人たち」(8.7)「弱い人々」(8.9))が存在する。彼らは偶像に供えた肉を食べることで心の平安を害されるおそれがある。この人々をもイエス・キリストは招かれたのである。知識を有するキリスト者は,偶像に供えられた肉を食べることは差し支えないと考え,自由に行動する力を有している。しかし,その行動によって知識を有しない弱い兄弟を躓かせることは,キリストに対して罪を犯すことである。「弱い人々」が滅びることがないように配慮しつつ行動すべきである。それが神を愛することであり,ひいては兄弟を愛することである。パウロは愛のために自分の自由に制約を加えて,今後は決して肉を食べないと述べるのである。
(2013/5/26名古屋聖書集会・聖書報告)下澤悦夫
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №211  

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 6月 4日(火)20時22分10秒 180-199-4-237.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年5月26日 午前10時  出席者:6名

*聖書集会 10:10~12:00

     司会:依田欣哉
    讃美歌:324番
   聖書朗読:創世記第32章23~33節
     祈祷:依田欣哉

   聖書輪読:エレミヤ書第45章1~5節

   聖書報告:下澤悦夫 コリントの信徒への手紙一第8章1~13節
             「偶像に供えられた肉」

   感話・感想
    讃美歌:310番
     祈祷:下澤悦夫

*昼食

*エクレシア研究会 13:00~14:30
     報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論Ⅱ」


次回の予定
 2013年6月9日 午前10時から
*聖書集会10:10~12:00
司会:依田欣哉
   聖書報告:檜垣徹 ヨハネの黙示録第21章22節から
 *昼食
*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
  テキスト「キリスト信徒のなぐさめ」 第4章「事業に失敗せし時」


       *************************

集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 下澤悦夫(℡052-913-1441)
      田中直子
                      檜垣  徹
                     依田欣哉(℡052-721-2304)
 

聖書報告:ルカによる福音書20章41~44節「ダビデの子についての問答」  依田欣哉

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 6月 4日(火)09時01分51秒 180-199-4-237.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  並行記事:マタイ22章41-46節、マルコ12章35-37節。内容は3福音書でほぼ同じ

内容: 世間の人々(ファリサイ派、律法学者主導による)が「メシアはダビデの子だ」と言う事に対して、イエス様は聖書を引用してダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、メシアがダビデの子などと考えるのはおかしいではないか、と言っている。マルコ、マタイではファリサイ派の人たちに問いかけている。イエス様の答えを聞いて一言も言い返すことが出来ず、その日以後誰一人質問する人がいなくなった(マタイ)。ルカでは人々に対して語りかけている。マルコでは「群衆はイエスの教えに喜んで耳を傾けた。」とまとめている。ルカでは記述無し。

イエス様が引用した聖書の言葉:詩編 110篇 メルキゼデク(義の王と言う意味)『創世記』 14:19~14:20
・当時律法学者達の定説は、メシア(救い主は)ダビデの子として生まれる、であった。この想いは当時一般民衆に中にも広く受け入れられていた。
・マタイ冒頭:アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図
・エリコでの盲人ザーカイの叫び「ダビデの子、イエスよ私を憐れんで下さい」(ルカ18章35-43節)
・旧約聖書における預言は:イスラエルを救う救世主はダビデの血統から生まれる(イザヤ書11章1-2説)
・イエス誕生における天使の言葉:ルカ1章31-33節
・これに対してイエス様ははっきりと否定された。その言わんとする所は、メシアの権能は血統によって備えられるものでなく、神の霊による選びによることを強調されたのだろう。聖書では(マタイ、ルカ)イエス様はダビデの子孫であるとしている。ただしそれは生物学的な血のつながりと言うものを越えた捉え方であることに注意すべき。
・これが、「何の権威によってこれらのことをなすか」との質問に対する最終的な答えと見ることができる。
・しかし、その場で自分がメシアであると明かしている訳ではない。歴史に委ねたと見るべきだろう。

45~47節  律法学者を非難する
並行記事
マタイ23章1-36節、マルコ12章38-40節、ルカ11章37-54節
・今回はこの部分は読むだけに留め、次回にファリサイ派(特にマタイに於いて)および律法学者達を極めて手厳しく、あるいは非難と言ってよい程に批判していることの真意について考えていきたい。
・イエス様が「汝の敵を愛せよ」と愛の真理を説かれたこととどのように調和させるのか、かなり読むことがつらい箇所です。
・ルカでは、ファリサイ派と律法学者を区別している。ファリサイ派に一定程度の手加減を加えている。
・これらのことに関して少し詳しく考えたい。
                                      2013年5月12日   依田欣哉
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №210

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 6月 4日(火)08時55分39秒 180-199-4-237.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年5月12日 午前10時
*出席者:5名
*聖書集会 10:10~12:00
    司会:田中直子
   讃美歌:122番
  聖書朗読:ヨハネによる福音書第8章31~32節
    祈祷:田中直子
  聖書輪読:エレミヤ書第44章1~33節

  聖書報告:依田欣哉 ルカによる福音書第20章41~44節
           「ダビデの子についての問答」
  感話・感想
   讃美歌:452番
    祈祷:依田欣哉

*昼食
*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
  テキスト「キリスト信徒のなぐさめ」
第3章「キリスト教会に捨てられし時」続き


次回の予定
 2013年5月26日 午前10時から
*聖書集会10:10~12:00
司会:依田欣哉
   聖書報告:下澤悦夫 コリントの信徒への手紙一第8章1~13節
        「偶像に供えられた肉」
 *昼食
*エクレシア研究会 13:00~14:30
  報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論Ⅱ」


                ***************************


□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人:下澤悦夫(℡052-913-1441)
      田中直子
                        檜垣  徹
      依田欣哉(℡052-721-2304)
 

5月19日易しい聖書

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 5月19日(日)19時40分11秒 180-199-151-113.nagoya1.commufa.jp
返信・引用 編集済
  本日の参加者は4人でした。久々に小川建司さんが参加される予定で期待していたのですが、都合で参加出来なくなり残念でした。
本日はヨハネによる福音書:5章19~30節「御子の権威」、31~47節「イエスについての証」
参考書として矢内原忠雄先生のヨハネ伝講義(矢内原全集第9巻)p92~101を用いました。詳しくはスレッド「易しい聖書」で。
 

5月5日易しい聖書

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 5月 5日(日)21時19分26秒 180-199-4-237.nagoya1.commufa.jp
返信・引用 編集済
  本日は二人でした。創世記29章~32章1節
    ラバンの家に着く
    ヤコブの結婚
    ラバンとの駆け引き
    ヤコブの工夫
    ヤコブの脱走
    ラバンの追跡
    ヤコブとラバンの契約
 ヤコブがエサウの怒りから逃れるためにハランにいる伯父さんのラバンのもとで20年間羊飼いの仕事をして過ごした時の話。10代後半にサウルとの確執があったとすると、ハランの伯父の下に30才代後半まで過ごしたことになる。ヤコブの青春時代を過ごし、結婚し、子供をもうけ、財産を築く、という後にイスラエルと改名する基礎を築いたことになる。
 波瀾万丈の人生と言って良いかとも思う。伯父のラバンと知恵比べというか騙しあいというか、お互いに協力しあいまた牽制しあうと言う生活が20年続いたことになる。詳細はスレッド「易しい聖書」で。
 

聖書報告:第一回 テサロニケの信徒への手紙 Ⅱ 1章1節~12節 田中直子

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 5月 4日(土)16時54分5秒 180-199-225-188.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
   緒論 この書簡は、第1の手紙の直後ではないかと思われる。著者はパウロということになっているが、近年これは別人が書いたという説が強い。別人とすると、パウロと共に働いた者が書いたのだろう。

 内容は「迫害、キリストの再臨、義務を果たすこと」。第1の手紙の内容で、誤解しかねない所を補足するのが目的。内村鑑三は次のように書いている「テサロニケ前書・後書はパウロの黙示録である。新約聖書には黙示録が二つあり、一つはヨハネの黙示録であり、もう一つはパウロの黙示録。ヨハネの黙示録は難解の書であるが、その原理においてテサロニケと異なるところはない。」

構成
①挨拶(1章1-2) ②迫害されている人たちのための感謝、慰め、執り成し(1章3-12)
③キリスト再臨に対する狂信的な期待を戒め、正しい期待へ導く(2章1-17)
④結びの勧告(3章1-16) ⑤自筆の挨拶(3章17-18)

1章1節~12節
1,2:挨拶。これは第1の手紙とほぼ同じ形。

4:今受けている迫害~誇りに思っている・・その当時の「迫害」に関して、ローマの行政官たちはキリスト教の信徒がいるだけでは特に何も処罰をせず、キリスト者に悪意を抱く者たちによって告発されない限り安全だったとトラヤヌス帝の頃の資料には書かれている。(ヘルムート・ケスター新約概説)

5:神の国のために苦しみを受けている~神の国にふさわしいもの・・当時の人は現世に希望が無いので来世的。神の国のために苦しむというのは神の国を待ち望んでいるということ。
見方を変えれば、迫害の苦しみは同時に慰めふかいもの。来たるべき栄光のために信徒が苦しむという思想は新約的。例(マタイ5-4。ルカ6-20)

6:あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって・・ユダヤ教的で報復思想を思い出す。このあたりの言葉を読むとパウロが書いたのではないような気もしてくる。

6~8:この訳はいろいろ。要は、神の裁きは苦しめる人には苦しみを与え、苦しめられた人には開放をするというもの。8節の「燃えさかる」はイザヤ書の66-15にあり、古代から小アジア、ギリシア、ローマの人々は天、地、水、太陽、を宗教的なものと関連させる。旧約の影響が大きい。

9:彼らは主の面前から・・メシア再臨の描写は多彩で、これも旧約の関連か。(出エジ14-24)

10:かの日、主が来られるとき・・これは主イエスが再臨して下ってきた際、聖徒たちのなかであがめられ、全て信じるものたちの中でほめ称えられること。
聖徒(αγιos)、信徒(πιστευσαιν)信仰者を別の言い方で表現。信徒を異邦人キリスト者ではないかと区別する聖書学者もいる。
10後半:わたしたち(使徒)のもたらした証しを信じたから。・・このつながりがわかりにい。信じたから→「イエスの福音にききしたがわない者には罰を」(8節)お与えになるという意味か。

11:このことのためにいつもあなたがたのために祈っています・・かの日(再臨の日)に一人も取り残される人がないように願っている。
11:後半:あなたがたを招きに・・ 地上での招き(キリストを信じること)ではなく、完成された神の国に入ることを言っている。

12:著者は信徒たちの中に良きことが全うされて主の御名があがめられ、それによって彼らが永遠の神の国に入れられるようにと(11節の続きで)願っている。
                                                          文責 田中直子
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №209

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 5月 4日(土)16時50分51秒 180-199-225-188.nagoya1.commufa.jp
返信・引用 編集済
  前回の報告
2013年4月28日 午前10時  出席者:7名
*聖書集会 10:10~12:00
   司会:下澤悦夫
  讃美歌:63番
 聖書朗読:マタイによる福音書第24章29~31節
   祈祷:下澤悦夫
 聖書輪読:エレミヤ書第43章1~13節

 聖書報告:田中直子 テサロニケの信徒への手紙二第1章1~12節

感話・感想

  讃美歌:499番
   祈祷:田中直子
*昼食
*エクレシア研究会 13:00~14:30
  報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論」1


次回の予定
 2013年5月12日 午前10時から
*聖書集会10:10~12:00
   司会:田中直子
 聖書報告:依田欣哉 ルカによる福音書第20章41節から
 *昼食
*内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
  テキスト「キリスト信徒のなぐさめ」
    第3章「キリスト教会に捨てられし時」続き(P32下段9行目から)


           ********************

□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)
      下澤悦夫(℡052-913-1441)
      田中直子
      檜垣  徹
 

聖書報告:未婚の人たちとやもめ(コリント前書7.25-40)報告者 下澤悦夫

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 4月22日(月)09時07分32秒 180-199-225-188.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  コリント教会からパウロに寄せられた六つの質問の第1は,結婚問題に関するものである(7.1-40)。

結婚問題に関する質問に順次答えてきて,その最後の部分が今回の「未婚の人たちとやもめ」(7.25-40)である。

当時のコリント教会の信徒たちの間にグノーシス思想の影響が強くあった。「我々は皆,知識を持っている」(8.1)というグノーシス主義者の言葉をパウロが引用している。この「知識」という語句の原語が「グノーシス」である。

グノーシス思想は霊と肉体とを分離して霊を重視し,肉体を価値の低いものとする。そこから性について,相反する二つの傾向が生じた。

第1は,性に関する自由主義である。肉体の次元を超越して霊の次元にしっかり立てば,セックスは自由であっても差し支えない,娼婦とのセックスも自由であるという立場である。

第2は,結婚もセックスも否定する性的な禁欲主義である。セックスは汚れたものであり,霊の価値を脅かすので結婚も性交渉も否定する立場である。パウロはこの二つの立場のどちらにも立たない。ひたすら主に仕える生活をすることが基本であり,それを満たす限り,結婚することと独身でいることのどちらをも肯定する。

パウロは,先ず「今危機が迫っている状態にある」つまり再臨が近いので「人は現状にとどまっているのがよい」とする。独身でいることが最善であるとして,これを勧める(7.25-28)。

再臨に先立つ患難の時期を耐えるためには,独身でいる方がたやすい。しかし,結婚することによって苦難が増し加わるとしても,それで罪を犯すことにはならない。その苦難を覚悟して結婚することはありうると言う(参照・ルカ23.28-29)。

次に「定められた時」すなわち世の終わりが迫っている。そこで,パウロは「妻のある人はない人のように,泣く人は泣かない人のように,喜ぶ人は喜ばない人のように,物を買う人は持たない人のように,世の事にかかわっている人は,かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」と言う。つまりこの世の秩序,制度を相対化して捉え,「思い煩わないでほしい」と言うのである。パウロの勧告の趣旨は「品位ある生活をさせて,ひたすら主に仕えさせるためなのです」(7.29-35)。

また,婚約している男はその相手の娘と結婚するよりも,結婚しない方がより善いことである。しかし次善の策として結婚することも差し支えない(7.36-38)。

最後に妻に対するパウロの勧告である。夫の生存中その結婚は解消されない。しかし夫が死んだときには,結婚の制約から解放されて再婚の自由が与えられる。その場合,やもめの再婚する相手はキリスト信徒でなくてはならない。しかし再婚しない方がより善い(7.39-40)。

                   (2013/4/14名古屋聖書集会・聖書報告)下澤悦夫
 

名古屋聖書集会(聖書の会)会報 №208  

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 4月22日(月)09時03分43秒 180-199-225-188.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  前回の報告
2013年4月14日 午前10時 出席者:7名

聖書集会 10:10~12:00
      司会:依田欣哉
     讃美歌:496番
    聖書朗読:創世記第28章10~19節
      祈祷:依田欣哉

    聖書輪読:エレミヤ書第42章1~22節

    聖書報告:下澤悦夫 コリントの信徒への手紙一第7章25~40節
             「未婚の人たちとやもめ」

感話・感想

     讃美歌:320番
      祈祷:下澤悦夫

昼食

内村鑑三の著作を学ぶ会(担当:依田欣哉)13:00~14:30
  テキスト「キリスト信徒のなぐさめ」第3章「キリスト教会に捨てられし時」
    (P24上段8行目~P32下段8行目)


次回の予定
 2013年4月28日 午前10時から
*聖書集会10:10~12:00
司会:下澤悦夫
   聖書報告:田中直子 テサロニケの信徒への手紙二第1章1~12節
 *昼食
*エクレシア研究会 13:00~14:30
  報告:下澤悦夫「塚本虎二の無教会論」


      **********************************

□集会場所:子供の家(共育ちの会運営)
〒464-0039名古屋市千種区日和町1-3-2 ℡052-762-4833
地下鉄東山線・名城線「本山」下車、①番出口より徒歩10分。
□集会日時:毎月第2及び第4日曜日 午前10時開会
□聖書の学びを通して、真剣に自己の生き方を考えようとする方の来会を歓迎します。
□共同世話人: 依田欣哉(℡052-721-2304)
      下澤悦夫(℡052-913-1441)
      田中直子
      檜垣  徹
 

4月7日易しい聖書

 投稿者:日々の労働  投稿日:2013年 4月 7日(日)18時20分15秒 180-199-225-188.nagoya1.commufa.jp
返信・引用 編集済
  本日は第一日曜日、易しい聖書の日です。午後1時より2時半まで、参加者2名でした。
創世記第25章19節~28章22節まで通読しました。
     エサウとヤコブの誕生、
     長子の特権、
     イサクのゲラル滞在、
     井戸を巡る争い、
     イサクとアビメレクの契約、
     エサウの妻、
     リベカの計略、
     祝福をだまし取るヤコブ、
     悔しがるエサウ、
     逃亡の勧め、
     ヤコブの出発、
     エサウの別の妻、
     ヤコブの夢。
 まことにアブラハム家の相続争い、父母兄弟血肉の愛憎劇を見ているかの様です。一般のドラマと大きく異なる点は、そこに神様の御心が働くこと、神様との関係において人の罪が描き出されること、神様との関係においてアブラハムの血統の人々の根底に流れる神様への信仰が尽きることなく流れ出ていることでしょう。新約聖書では描かれていない、赤裸々な人間ドラマが展開されているかの様です。家族の物語として読めることもあり、ストーリーをたどることに関してはとてもよく理解出来ます。しかし、いざ神様との関係において人の存在を如何に受け止めるか、信仰的にこの物語を如何に理解するかはとても難しい課題であると感じます。
      詳しくは、スレッド易しい聖書に書きたいと思いますのでそちらをご覧下さい。
 

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